2016年9月9日
当社の本社はじめ各営業所に創業者河野謙三氏の写真が掲げられています。年配の方は、参議院議長の河野さんですねという方もいますが、昭和の後半以降に生まれた人には、昔の会社関係の人のようだけど、何したオジサンなの?っていう感じでしょうか。私自身も中学生の頃のおぼろげな記憶の中で参議院の議長席に座ってたオジサンとして思い浮かべる程度でした。ただ調べてみると政治家というよりもひとりの
人間として大変興味深い一面もありました。
謙三氏は1901年(明治34年)神奈川県足柄下郡豊川村(現在の小田原市成田)に生まれ、小田原中学(現在の小田原高校)時代より長距離選手として活躍、その後早稲田大学に進み競争部に入部し、兄の一郎氏とともに箱根駅伝の選手として活躍し2度の総合優勝に貢献しました。1923年(大正12年)には山登りを任され新記録を作りましたが同年9月の関東大震災で走路が崩れ翌年からはコースの一部が変わったそうです。それを理由に自分の区間記録は未来永劫破られないんだ、と豪語していたそうです。大学卒業後、大日本人造肥料(後の日産化学工業)入社。昭和24年1月に衆院選に立候補し当選、同年4月に新興海陸を設立し社長となりました。その後昭和28年には参議員に転身、昭和46年に参議院議長に就任し6年間にわたり参議院の改革に尽力いたしました。議長に就任するまで当社の社長を務めておりました。時代が時代とはいえ、さぞかし忙しい人生であったかと思われます。また、当時の政治記者やスポーツ記者の間では、気骨溢れる政治家という印象の一方で洒脱な駄じゃれをこよなく愛する一面もあり多くの人に親しまれたという記録もあります。例えば国会がストップして動かない時は、「こりゃ、ボタ餅の綱渡りだねえ。ニッチもサッチも動かない。」と記者団を爆笑させたり、ゴルフの時に同伴者があっちこっちと苦戦して回っていると「あんた、今日はお医者の車だねえ。悪い所にばかり寄ってるよ。」なんていう軽口が当意即妙に飛び出したとか。そうかと思えば北方領土問題では「いつまでも山手線に乗って同じ所をグルグル回っているのか。そろそろ中央線か東海道線に乗り換えようや。」と当時のソ連大使に迫ったそうです。昭和58年に82歳でこの世を去るまで政治、教育、スポーツ会への強烈な戒めと警鐘は多くの人々に受け入れられ共感を呼んだようです。そして国民ひとりひとりが「一隅を照らす」という心構えを持つことがいかに大切かという言葉を残しました。もし謙三氏が今生きていたら、今の国民や国会そして政治家を見てどう思うでしょうか。今回は創業者に敬意を表しつつご紹介させていただきました。最後までお読みいただきありがとうございました。